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2014年平和行動 in 沖縄報告

港西なにわ地区協議会 副議長 入江 寛

第1日目

多賀団長あいさつ

 沖縄で起きている米軍の犯罪が日米地位協定によって日本の法律で裁けないのは問題である。普天間基地周辺の住民や沖縄の住人に不安感をあたえている。米軍基地の問題を深く掘り下げて考えていただきたい。「平和とは何かを」考え続けていく限り決して戦争は起こらないと確信しているので、今日からの行動の糧としていただきたいと思う。

平和オキナワ集会

第1部 基調講演 柳沢協二氏 『抑止力と沖縄の未来』

 小泉内閣、福田内閣でも同じ事を発言してきたが、世間が右傾化している今日の日本では、私が左よりに見られているが私はぶれていないだけである。冷戦時代には米軍はアジアに10万人の兵力を駐在そのうち5万人が沖縄であったイラク戦争、アフガン戦争での沖縄の役割は部隊派遣の中間点であった、しかし最近の情勢では中国を意識しているが対中国となると地理的な面で見るとすぐに攻撃を受けてしまう沖縄は意味をもたないし、沖縄が直接攻撃を受けてしまう事になる。

 尖閣諸島の日中の摩擦は米国にとっては迷惑な話で、いつどこで戦争を起こすのはアメリカが決めることであり、本音は「無人の岩に巻き込まないでくれ」がオバマ大統領の腹のうちである。昔からアメリカが許せないことは、アジアにおける覇権国の出現で中国は大中華【清時代の現状復帰】復興であるのでここで摩擦が起こる。全面戦争はないが局地戦は起こりうるので、両国間の安全のルールが必要である。

 集団的自衛権は必要はなく安倍首相が記者会見で発言している米軍艦船に日本人が輸送されるなんてことは、100%ないことだ。紛争地帯でのアメリカの対応は自国の人間でさえ「民間航空機など民間の機関を使いなさい。」との指示を出している。日本であれば最悪の場合でも自衛隊機で搬送できるので、安倍内閣の本当の狙いは守るべき対象は日本のお爺さんお婆さんではなく、米軍空母だ。たいした資源もない尖閣諸島のこだわる必要はないし共同統治という手段もある。

 ナショナリズムを過度にあおらないことが最大の課題である。砂川事件が集団的自衛権を認めていると安倍は言うが砂川事件の中身もわからないのか失笑もできなく呆れてしまう。アメリカの立川飛行場を占拠して逮捕されたのを争う裁判が砂川事件判例である。最後に沖縄があるいは日本がとるべき方向は海洋国家「貿易をはぐくみ豊かな経済力を持つ」ことでありけっして島国「他者を排除する考え方」ではいけない。戦争よりも自由貿易経済を優先することが大事である。

第2部 平和式典

『連合神津事務局長あいさつ』

 日本で唯一地上戦となり多くの住人が犠牲となった。癒えることない傷の上に米軍基地問題がのしかかっている。基地の縮小と日米地位協定の抜本的見直しに取り組んでいく。

『連合沖縄大城会長あいさつ』

 安倍総理は戦争の事実や意味を理解してない。皇民化教育と称して集団自決を強いた事実など、沖縄戦の悲惨を教育から消し、歴史を塗り替えようとさえした。69年前の戦争でわれわれは反省し憲法9条を守ってきたはず。隣国とぶつかり領域を争うようになれば、最新型の兵器が飛び交う現在、69年前の戦争とは被害は比べ物にならない。そんなことも想像できない今の安倍政権は危機的な状況である。

あいさつをする連合神津事務局長

あいさつをする連合神津事務局長

平和集会のようす

平和集会のようす

第2日目

糸数アブラチガマ

 入口は狭く息苦しさを感じた、全長270mのガマ内に600人以上の負傷者で埋め尽くされたそうでその中には脳症患者もいて一番端の暗い洞窟の隅に追いやられていたそうだ。

洞窟の壁には爆風で吹き飛ばされたドラム缶の破片が突き刺さり爆風の凄まじさを物語っていた。

ひめゆりの塔

 沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡、ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていた。6月18日、突如軍より解散命令が下された。この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかであった。生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりした。

 「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散」後の死者が128人であることが示す通り、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだ。ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。手前の石で造られた碑がひめゆりの塔で後の大きい方が慰霊碑だそうだ。

魂魄の塔

 ここは沖縄戦最後の激戦区であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場が無く、陸海空からの激しい攻撃を受けて倒れた者が数多い。敗戦後、米須は真和志村民が移動収容されたところであった。この旧真和志村民が米軍の許可を得、遺骨収集班を結成して道路や畑、丘や森に散っていた遺骨を集め納骨堂を完成して祀った。

平和記念公園

 1945年5月末、第32軍司令部は米軍の猛攻に追われて、首里を放棄し南風原を経て本島最南の摩文仁に撤退した。そしてついに6月23日、司令官の牛島中将以下は自決し、3か月近くに及ぶ日本軍と米軍の組織的な抵抗は終わった。この“沖縄戦終焉の地”となった摩文仁の丘は、今は「平和祈念公園」として生まれ変わった。広大な敷地に各都道府県ごとに亡くなった方々の名前が碑に刻まれていた。資料館には沖縄の地上戦で犠牲となった住民の遺体の写真が数多く展示されていて、沖縄の地上戦の悲惨さをまざまざと感じた。

平和記念公園ホームページ http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/

県庁前集会とデモ行進

 「在日米軍基地の整理縮小」と「日米地位協定の見直し」を求めて沖縄県庁前広場で集会とそこから国際通りの中をデモ行進を行った。連合の各都道府県の隊列ごとにハンドスピーカーが手配されていなかったので、先頭と最後尾で行われているシュプレヒコールが聞こえにくくて、各隊列ごとのシュプレヒコールがうまくいかずに、「反戦平和」を沖縄の人たちにアピールできなかったのが悔いが残った。

第3日目

対馬丸記念館

 対馬丸(6754トン)は、1944(昭和19)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまった。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったそうだ。

 ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれました。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。そのうち学童780名もの希望あふれる命が葬りさられました。みんなは「お母さん、お父さん、先生助けて」と泣き叫びながら死んで逝かれたそうだ。

対馬丸記念館ホームページ http://www.tsushimamaru.or.jp/

佐喜真美術館

 戦争を題材に描かれた丸木位里・丸木俊夫妻の作品『沖縄戦の図』が展示され、戦争の悲惨さを絵画で表現して訴えかけていた。

佐喜眞美術館ホームページ http://sakima.jp/

最後に

 ほんとに久しぶりに沖縄の平和行動に参加さしてもらって感謝しています。広島、長崎の原子爆弾の悲惨さとは、また違って沖縄の地上戦に巻き込まれて亡くなられた人々、特に日本軍にスパイ容疑をかけられて殺された住民の人々や集団自決を迫られて死んでいった人たちの無念さや失望は計り知れないものがあると思います。あらためて軍隊の冷徹さ恐ろしさを自覚しました。

 最近の集団的自衛権の問題など日本全体が右傾化する中であらためて平和の尊さを感じた3日間でした。特に修学旅行で来られていた各地の中学生、高校生が戦争の悲惨さを肌で感じて次世代でも平和な日本を作り上げてくれることを期待して今回の報告とします。

佐喜眞美術館から見える米軍基地

佐喜眞美術館から見える米軍基地

首里城から見た市街地

首里城から見た市街地