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ウージの森であなたと出会い、ウージの下で千代にさよなら 〜「平和行動沖縄」として、

東芝労働組合西日本営業支部
高田正信
(水都地区協議会 副議長)

 沖縄本土返還1972年から50年という節目の年に沖縄平和行動に参加、貴重な体験をし、学びを得たので、以下の通りレポートする。

 最初に対馬丸記念館を見学。戦時中の学童疎開の為、対馬丸(船)に乗り込んで疎開を試みた。対馬丸の周りに軍艦を配備している為、安心だと思いこませ、子どもたちは遠足へ行くような気持ちで、対馬丸に乗り込んだ。しかし、戦時中であったのでスピードの遅い対馬丸は攻撃対象になり沈められた。

 記念館では犠牲者ひとりひとりの遺影パネルが掲示されており、そのほとんどが小さな子どもであったことに困惑した。また、当時の事件の詳細など展示資料を通じ知ることで、戦争が無ければ当然起こることのなかった多くの子ども達の夢や命が奪われた痛ましい事件であったということを学んだ。

 平和オキナワ集会では那覇文化芸術劇場なはーと「大劇場」で開催された。日米地位協定に関わる基調講演では、日本の協定は米軍に対して、日本国内法が適用できない故に米軍機の飛行を規制すらできない等、明らかに不平等な協定であるということを改めて認識できた。

 平和式典を通じて基地問題をはじめとする沖縄をとりまく課題は、日本全体が考えなければならない課題であるということを再確認した。本土返還されて50年経つがまだまだ傷跡が残っている。戦争の影響を強く感じた。

平和沖縄集会

平和沖縄集会

 翌日、ピースフィールドワークに参加。戦争体験者が少なくなってきているが、6月23日の平和行動に合わせ、若者たちが皆で勉強をし、語り部になり説明頂いたことに感謝したい。

 フィールドワークで特に印象に残った糸数アブチラガマは、未だその大半が当時のままの状態で保存されている。視察前日まで雨が降っており、真っ暗で静かなガマの中は足元が濡れており、上からも水滴も落ちて来ていたが、ここは怪我をされた方の治療や休む場所だったと説明を受けた。

 そこで活躍していたのが、ひめゆり学徒隊であった。私の娘と同じぐらいの学生が治療の手伝い、食事の準備、汚物の処理、死体の処理を行っていたと聞かされた。

 語り部さんの生々しい沖縄戦の話を併せ聴くことで、平和な現代社会に生きる我々には到底想像もつかないであろう当時の惨状を想像した。想像しただけでも嫌な気持ちになったが、その時代は「滅私奉公」「お国のため」と洗脳されており、そうした事が勝ち目のない(被害だけが多くなる)戦いを続けてしまったのではと感じた。

ピースガイド
ピースガイド

ピースガイド

 佐喜真美術館では、戦場を逃げ惑う人々や集団自決、ガマの様子などを描いた「沖縄戦の図」を前に、美術館長から作品を通じた沖縄戦の悲劇に関する話を聞かせて頂いた。美術館の屋上からは普天間基地の全体が見えた。基地は街のど真ん中にある。沖縄の地であるのに、高い鉄柵に隔てられた、別の世界のようであった。早く沖縄へ返してほしいと改めて思った。

 皆で力を合わせいくしかない。

 レポートの標題として島唄の歌詞を紹介した。ウージの森とはサトウキビ畑の事、「ウージの下で千代にさよなら」はウージの下(ガマ)で集団自決により命を絶ち永遠の別れとなったこと表しているとの事である。

 米軍に捕まると酷い仕打ちを受けると恐怖心を植え付けられ、捕まるなら「愛する者を自分の手で殺そう」と家族・友人・知人を手に掛けた。余りにも残酷な決断に何とも言い難い気持ちになった。家族を手に掛けたが自分は死にきれず今も苦悩している方もおられるとの話を聞き、まだまだ戦争の悲劇は続いているのだと感じた。

沖縄の海と空

沖縄の海と空

 戦争の悲惨さを知ったからこそ、我々も平和の尊さ、何気ない毎日の大切さを知る事が出来たと思う。「戦争は何も生み出さない」「戦争は誰も幸せにはしない」という事を言い続ける事が、私達の使命であるのだと痛感した。まずは自分の周りから、職場の仲間や家族、そして組合員へ、今回の平和行動で私が見た物・聞いた事を伝えたい。

普天間基地のようす
普天間基地のようす

普天間基地のようす

 沖縄からの平和アピールは大変力強く、一人一人の声は小さくとも皆で諦めず主張していくことが大事であると考えている。

集合写真

集合写真